泡盛は15世紀頃、琉球が中国や東南アジアと貿易を
盛んに行っていた大交易時代に、
シャム(タイ国)より渡ったラオロン(蒸留酒)を祖としています。
その製法はインディカ米を原料に、
沖縄独特の黒麹菌(クエン酸を出す)を使い発酵させもろみを作り、
蒸溜するというもので、基本的には500年前から
同じ製法で行われています。
当時、王府では泡盛を厳しい管理下に置き、
中国や日本への献上品としていました。
まさに、歴史とともに沖縄の伝統、文化が受け継がれ、
生まれたのが泡盛なのです。
沖縄に実在していた100年、200年といった古酒は、第二次世界大戦の戦禍によりそのほとんどが失われています。
現在、沖縄で公表されている中で、最も古いと思われる泡盛は、私たち識名酒造にある先々代の時代より受け継がれてきた約150年物の古酒と言われております。
戦前、首里には約70もの泡盛工場がひしめいていました。その一つだった識名酒造の主、先々代 識名盛恒は、首里に戦火が及びそうになると、大切にしていた南蛮がめの古酒3本を庭先に深く埋め、妻と二人の娘を連れて南部へと逃げました。
当時、先代 識名謙をはじめ、男は軍に徴用されていました。南部の鍾乳洞に一家が潜んでいたところ、日本軍が”戦闘の邪魔”と外に追い出した。
しかし、外は米軍の艦砲射撃が雨のように降りそそぎ、逃げ惑う中、妻と娘の一人が直撃を受け、亡くなりました。
沖縄戦を経た首里にかつての面影はなく、隣との境はおろか、庭につけていた目印さえ分からぬほどの焼け野原になっていました。それでも、盛恒は何日も何日も庭を掘り返し、古酒を探していました。
そして何度目か、ようやく探し当てました。
3つ埋めた南蛮がめのうち、奇跡的に2つのかめが無事に発見されました。
その瞬間「識名家はもう大丈夫だ」と、盛恒は叫んだそうです。
かめを埋めたのが幸いでした。
当時、どの工場も泡盛は地下に作ったタンクで保存していました。
先々代も空の地下タンクに入れようと思ったそうですが、タンクのふたが小さく南蛮がめが入らなかったそうです。
他の工場はタンクごと破壊されたそうですが、地中深くに埋めたかめは猛爆撃に耐える事が出来たのです。
こうして発見された古酒を盛恒はより一層大事にしました。亡くなる間際まで、「古酒は宝だ」と繰り返し、かめを滅多に開けることは無かったそうです。
先代 識名謙もその伝統と想いを受け継ぎ、この古酒を守り続けていました。時代は変わり、当代 識名研二の代になった今でも「識名家の家宝」として大事に受け継がれています。
古酒は「仕次ぎ」という作業を行なって、貯蔵します。
古酒を酌み出したら、次に年代の古い酒を同量だけ次々とつぎ足していきます。
こうやって酒を活性化させることでより熟成され、滑らかな舌触りと独特な風味を育てていきます。
沖縄では、井戸には水神が宿っていると言われており、大切な拝みの場所となっています。
識名酒造にも今なお現役で使われている井戸が敷地内にあり、打ち水や洗車などに使用しています。
20年ほど前、渇水の時に井戸水をポンプで全て出して中をキレイにしました。その時、井戸の中の全容を知ることが出来ました。
井戸の中はかなり大きく、石とツルで包まれており、壺のような形をしています。今では貴重な形の井戸です。